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会計・税務及び経済関連(時々雑談)

中世における対中国貿易と東アジア経済(3/4)

 中国では14世紀後半に元が北方へ退き、漢民族により明朝が開かれます。永楽帝は積極的対外政策をとり、鄭和に南海遠征を行わせるなど、周辺諸国に優位性を誇示し朝貢関係を求めました。朝貢とは、服属国(周辺諸国)が宗主国(明)に対して定期的に使節を送り、貢物を献ずる代わりに、宗主国(明)が服属国(周辺諸国)に下し物を与える関係で、明朝は日本・朝鮮に対してもそれを求めました。そして貿易による利益を独占するために、民間の海外交易を禁じ(海禁)、朝貢貿易に一本化して、厳しく管理しました。明商人は直接外国商人と取引することができなかったため、朝貢国の琉球マラッカ王国が、東アジア・東南アジア・インド洋諸国の商品と中国商品との取引の中継地となりました。遺明船は明朝への通行に際し、明の港で取引することが認められました。

 14世紀、対馬壱岐肥前国や中国大陸・朝鮮半島出身者などで構成される海賊=倭寇東シナ海域を主に非合法的に活動し、明朝は日本に入貢を認める代わりに倭寇の討伐を求めました。倭寇は、幕府による貿易管理に反発し、国家を後ろ盾に貿易に携わることのできない不満を表しました。15世紀初頭に日本・朝鮮がともに明朝と朝貢関係を結んで以降、東アジアの国際関係は次第に安定し、日明貿易・日朝貿易が進展するとともに、倭寇に悩まされた朝鮮の倭寇懐柔策により倭寇が合法的な商業活動を行うなかで、琉球-薩摩-博多-対馬-朝鮮を結ぶ交易ルートを彼らが掌握しました。

 

中世における対中国貿易と東アジア経済(4/4)に続きます。

 

参考文献

・日本経済の歴史(名古屋大学出版会)