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会計・税務及び経済関連(時々雑談)

中世における渡来銭の流入と手形の発達(1/3)

 10世紀中頃を最後に日本での貨幣鋳造が中断すると、11世紀初頭に銅銭の流通は途絶え、以後12世紀中頃まで米や絹布を貨幣に換算して交換手段とする商品貨幣の時代が続きました。12世紀後期に日宋貿易により宋銭が大量に流入すると、商品貨幣である米と絹布の需要が減り、一時的に米価・絹布価格が下落したと見られます。朝廷は宋銭の使用を禁じましたが民間での宋銭の使用はやまず、結果的に容認されました。鎌倉幕府は、1226(嘉禄2)年に准布を貨幣として用いることを禁じ、貨幣として銅銭使用を強制しました。

 この頃、宋銭は絹布に代わる主要な支払手段となっており、絹布で納入されていた公事などが銭で納められ始め、1270年代には年貢納入も米ではなく銭で行われるようになりました(公事・年貢の代銭納化)。商品貨幣は、保存性、運賃コストの面で金属貨幣に劣り、銭貨が十分に供給されれば、金属貨幣で代替されると考えられます。もっとも経済的関係は単純ではありません。米不足などにより米価が高騰している場合には、銭より米での年貢納入が求められる場合もあり、代銭納が広く普及するにはある程度の時間がかかりました。それでも14世紀初頭には、おおむね銅銭が米に代わる交換基準としての役割を担うようになりました。

  14世紀に明朝が成立すると、宋銭に加えて明銭が流入するようになりました。市場に流通する品質の良い銭貨(精銭)と品質の悪い銭貨(悪銭)とでは良銭が退蔵され、徐々に希少化します。悪銭を排除しようとする撰銭も頻発し、希少化した良銭を補うために、日本でも中国でも私鋳銭が大量に鋳造されるようになりました。

 こうした私鋳銭の流通でかろうじて維持されていた銭経済は、1570(元亀元)年前後に明からの銅銭供給が途絶えると破綻を迎えました。背景には、新大陸のスペイン植民地で銀山開発が進展し、大量の銀が明に流入して、明が銅銭経済圏から銀経済圏へと転換したことがありました。

 銅銭供給の途絶で最も打撃を受けたのは、日明貿易が盛んであった幾内をはじめ西日本で、銭貨の信用が低下するなか、高い商品価値をもち、換金性の高い米が通貨として代用され、米を知行宛行や軍役賦課など権力編成の基本数値とする石高制が豊臣政権で採用されました。良銭が希少となる時期が西日本より遅れた東日本では、明銭(永楽銭)を基準貨幣とする銭経済が存続しましたが、それは小田原北条氏領国に限られていた可能性が高く、実際には雑多な銭貨が流通していたと考えられます。良銭が希少になった16世紀末には、年貢は悪銭(ビタ銭)による代納へと切り替えられました。徳川氏は、関東を領有すると良銭の希少化を補うため高額貨幣として金貨を発行し、明銭の使用は、江戸幕府が1608(慶長13)年に明銭とビタ銭と金貨の公定レートを制定し、禁じられました。

 

中世における渡来銭の流入と手形の発達(2/3)に続きます。

参考文献

・日本経済の歴史(名古屋大学出版会)