ogurakaikei’s ブログ

会計・税務及び経済関連(時々雑談)

経済史

18世紀における貨幣改鋳と幕府の経済政策(2/2)

金属貨幣としての銀貨が減少しても、基準貨幣として銀目が継続した背景には、銀目単位の貨幣として藩札・私札・手形などが通用したことがありました。手形は、両替商システムの整備とともに発行されて流通するに至り、私札は、近世初頭から一定の地域内で流…

18世紀における貨幣改鋳と幕府の経済政策(1/2)

江戸時代の三貨制度は1660年代に安定したとされ、寛永通宝が増鋳されてビタ銭の多くはオランダ船で東南アジアへ輸出され、この頃までに銭貨は寛永通宝にほぼ一元化されました。一方、額面で価値が表示された金貨は、長年の使用で摩耗して金の含有量が減少す…

18世紀における東アジア世界(2/2)

正式な貿易港として幕府が管理貿易を行った長崎、朝鮮との通交の窓口となった対馬、琉球との交易を行った薩摩、アイヌとの交易を行った松前の「四つの口」のうち、琉球口・朝鮮口には「通信の国」としての役割分担があり、長崎貿易と異なり、17世紀は特に規…

18世紀における東アジア世界(1/2)

長崎貿易では、糸割符制が1655年に廃止され、最大の輸入品である生糸が、相対取引となり、国内商人の自由な取引参加が認められましたが、元値決定の主導権を外国商人に握られたため、その後再び幕府は貿易統制を強め、1672年に市法商法が取られました。市法…

17世紀における東アジア貿易と三貨制度(3/3)

三貨制度の特殊性に規定されて三都で両替商が成長すると、商業が拡大するとともに両替商が信用の供与を求められました。特に江戸時代の商品流通が領主米(年貢米)の商品化を基本とする流通構造であったため、その領主米の集散地として大坂が最も重要となり…

17世紀における東アジア貿易と三貨制度(2/3)

17世紀の日本は国内で豊富に金・銀・銅の金属を産出し、これらをもとに近世日本では、自国貨幣が鋳造され、金・銀・銭(銅)からなる三貨制度と呼ばれる近世の貨幣制度が成立しました。16世紀になって明にヨーロッパから大量の銀が流入し明が銀経済に転換す…

17世紀における東アジア貿易と三貨制度(1/3)

徳川幕府下の対外交易は「四つの口」で行われることになりましたが、「鎖国」体制構築以前の豊臣政権・初期徳川政権下では、朱印船貿易として行われました。当時東シナ海では倭寇が盛んに活動しており、それらと正規の許可を得た貿易船を区別するために、豊…

17世紀における石高制・身分制と「鎖国」体制(4/4)

太閤検地や徳川幕府の検地では、耕作者が年貢負担者と定められましたが、実際の年貢納入主体は「村」単位で、もし年貢を納められない百姓が村内にいた場合、村はそれに代わって年貢を納める必要がありました。それゆえ村がその領域内の土地所有関係に関与し…

17世紀における石高制・身分制と「鎖国」体制(3/4)

中世から近世への移行期にあたる15~17世紀は、地理上の発見により「新大陸」を含む地球規模での世界史が登場した時代で、ヨーロッパ勢力のアジアへの進出のなかで、本格的に東西文明が出会いました。東アジアの一員であった日本もこの影響を受け、織田・豊…

17世紀における石高制・身分制と「鎖国」体制(2/4)

近世社会は武士と農工商の分離=兵農分離を軸とし、住民の自治的な共同体である村や町という地縁的な諸身分集団を基礎とする身分制社会とされます。その起点となる兵農分離は、豊臣政権の刀狩りに求められることが多く、その際に在地内で「侍分」という階層…

17世紀における石高制・身分制と「鎖国」体制(1/4)

石高制とは、村を単位に田畑屋敷の面積を測量して石高を算定し、その石高をもとに豊臣氏・徳川幕府から大名に、大名から家臣に領地を石高であてがい、石高に対応した軍役の奉仕を義務付ける一方、村は石高に対応する年貢を米で領主に納める関係から構築され…

中世における朝廷・幕府・大名の経済政策(5/5)

織田信長の経済政策として、「楽市楽座令」と俗称される政策がありますが、戦国大名や織田・豊臣政権が一方で、同一地域の特権商人の「座」を保護していることや、施行対象地が城下町以外に地方市場・寺社町を多く含んでいることが明らかにされ、それは商人…

中世における朝廷・幕府・大名の経済政策(4/5)

1454年の享徳の乱を契機に東国で騒乱が始まり、さらに1467~77(応仁元~文明9)年の応仁・文明の乱で、京都も長期の戦乱に巻き込まれ、戦国時代が到来しました。足利将軍家の権威失墜とともに、各地で戦国大名が覇権を争い、領国(分国)内での自立的な支配…

中世における朝廷・幕府・大名の経済政策(3/5)

鎌倉幕府は1333(元弘3)年に滅亡し、後醍醐天皇による短期間の建武の新政を経て、1336(建武3)年、足利氏が幕府を開き室町幕府が始まりました。皇統が南朝と北朝とに分かれて、それぞれを支持する公家・武力勢力が離合集散を重ねましたが、政権は次第に安定し1…

中世における朝廷・幕府・大名の経済政策(2/5)

治承・寿永の内乱後、1183(寿永2)年に源頼朝が朝廷から東国行政権を委譲されたことを実質として、1192(建久3)年に征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が始動しますが、鎌倉時代の支配体制を鎌倉幕府に求めるかどうかは中世国家の性格規定に関わる重要…

中世における朝廷・幕府・大名の経済政策(1/5)

10世紀に入ると在地での荘園の形成に伴う領主的土地所有により、土地公有制は実質的に崩壊し、公有地からの税収に依存してきた律令国家は財政基盤を失い、そのため国家的プロジェクトである造営事業の経費をいかに確保するかが大きな課題となりました。 荘園…

中世における渡来銭の流入と手形の発達(3/3)

中世日本の信用経済の背後には中世社会独特の債権・債務関係が存在していました。中世社会では債権について国家による保証がなく、担保によって保護される要素も限られるため、脆弱であり、債務者の許容する範囲で保護されるに過ぎず、債権者と債務者の共存…

中世における渡来銭の流入と手形の発達(2/3)

11世紀から12世紀中期にかけての商品貨幣の時代は、体積や重量、保存上の問題からの商品貨幣の弱点を補完する目的で信用経済が展開しました。それが支払指図書で、荘園領主が所管の倉や所領にあてて米銭の支払いを命じた書類(切符・米切符)が、別の支払い…

中世における渡来銭の流入と手形の発達(1/3)

10世紀中頃を最後に日本での貨幣鋳造が中断すると、11世紀初頭に銅銭の流通は途絶え、以後12世紀中頃まで米や絹布を貨幣に換算して交換手段とする商品貨幣の時代が続きました。12世紀後期に日宋貿易により宋銭が大量に流入すると、商品貨幣である米と絹布の…

中世における対中国貿易と東アジア経済(4/4)

16世紀中頃の大内氏滅亡を画期として日明貿易は衰微し、再び倭寇の非合法活動が盛んになり、彼ら後期倭寇は、銀を新たに交易品に加えました。東アジアでは、16世紀初頭に朝鮮で銀山開発が進み、その銀が日本や明へ流入しましたが、1540年代以降は日本で急速…

中世における対中国貿易と東アジア経済(3/4)

中国では14世紀後半に元が北方へ退き、漢民族により明朝が開かれます。永楽帝は積極的対外政策をとり、鄭和に南海遠征を行わせるなど、周辺諸国に優位性を誇示し朝貢関係を求めました。朝貢とは、服属国(周辺諸国)が宗主国(明)に対して定期的に使節を送…

中世における対中国貿易と東アジア経済(2/4)

東アジアの政治情勢は、13世紀初頭のモンゴル帝国の台頭で大きく変化しました。モンゴルは、ユーラシア全土にまたがる大帝国を築き、中国では「元」を建国して海上交易へも積極的に乗り出し、新都「大都」の中心部に人口の港を建設し、運河で海に接続しまし…

中世における対中国貿易と東アジア経済(1/4)

近年では、古代から中世への移行期を院政期(11世紀末~13世紀初頭)に求める見方が主流です。この院政期に、対内的には荘園制が確立し、対外的には日宋貿易が展開され、渡来銭の大量流入が始まりました。平安時代の貿易は大宰府を中心とした管理貿易が主で…